野口雨情と湯本温泉
「青い眼の人形」「赤い靴」「十五夜お月さん」「しゃぼん玉」 など、多くの童謡を作詞した詩人野口雨情(本名英吉1882-1945)が湯本温泉で生活するようになるのは大正4年(1915)、33歳の時である。その年の5月に最初の妻高 塩ヒロと協議離婚をしている。ヒロは栃木県喜連川の山林地主高塩家の娘であった。回船業を営んでいた野口家は常 磐線の開通によって京浜への輸送は海上から陸上へと転換したことによって家業は傾き、高塩家の支援が必要であっとされる。離婚したあとも雨情は高塩家が所有している高岡の山林を管理するため12月から3月まで同地に滞在したり、入山採炭(株)の事務員として勤めたりしていた。また北国での生活で痔を病み、湯本温泉での保養、芸姑置屋明村まちとの同居、磯原の同郷人「新蔦」の若女将若松ユキが近所住まいをしていたことなど湯本での生活は大正八年秋まで四年間に及ぶ。
この湯本時代は2児との親子三人の生活が続いたところでもある。また作家への再出発するための充電期を過ごした土地として重要な位置を占めていたといってもいい。
大正7年1月の年賀状を湯本湯本柏家から磯原の親友渡辺之介に差し出し、6月には喜連川のヒロの実家に立木の売買の相談をしたり、8月には高塩家の立木を炭鉱の杭木として売る交渉したりしていた。翌年の年賀状も柏家から出し、秋、水戸や東京にいる文学仲間と会うため湯本を去る。水戸には20歳下の中里つるがいてその生活に入るが、結婚届を出したのは昭和10年のことである。高塩ヒロは昭和18年に野口家に復籍した。
昭和3年頃のエピソードを一つ。湯本の温泉神社の佐波古直貞氏が東京田町駅前を歩いていると「柏家明村まち」の表礼を見た。湯本温泉が石炭採掘で枯渇し営業が出来なくなったことや、雨情を追って上京したという説もある。
雨情は昭和20年1月27日宇都宮で没した。雨情親子も明村まち親子も再び湯本温泉に戻ることはなかった。
雨情が湯本温泉をモチーフにした作品として、森進一の「劇場の前」と森繁久彌の「荷物片手に」の歌が残っている。